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一篇ですが、僕は『野球王』という作品に衝撃を受けました。
ナボコフの家にエレベーターがあったという話から、かつての友人で
ある「野球王」の話へとアクロバティックに展開していくトリッキー
で斬新な一篇です。あまりに面白くてあっという間に読み終えてしまい
ました。
記憶よ、語れ!
『野球王』の中で繰り返されるその言葉が、記憶と共に様々なイメージ
を呼び起こしてくれます。
この短篇集が僕の2006年ベストワンです。
精緻な現実界を歩んでいるかと思っていると、やがて知らず知らずのうちに幻想の世界へと読者を迷いこませるほんの些細なほころびが物語の中に巧みに仕組まれています。
例えば、昭和54年1月に大阪で起きた三菱銀行立てこもり事件をベースに紡がれた「日付のある物語」。あの凄惨な事件はテレビで全国中継され、当時中学生だった私の記憶にも強く刻まれたものです。
辻原登はこの事件の犠牲者の氏名や肩書き、被害状況について、あたかもルポルタージュであるかのような筆遣いで読者の前に詳細に差し出します。そうしながら、この事件を銀行の地階にたまたま居合わせた左翼活動家のその後の人生という仮想のお話にすりかえていくのです。
「野球王」では作家ナバコフやエレベーターの自動停止装置を開発した発明家オーティスの履歴について詳述しながら、やがて物語の中核を「私」の同級生であった野球部の少年の苦く悲しいお話へと移し替えていきます。
「枯葉の中の青い炎」に至っては、天皇陛下が太平洋諸国歴訪の旅を中止したことを報じる2003年の新聞記事を冒頭に掲げた後、スタルヒン投手の300勝目の試合へと一気に時代を遡り、そこに作者はやはり魔法のような物語を紡ぎあげていきます。
揺るがし難いかのように堅固なこの現実の世界と、人間の賢(さか)しらな理と智を寄せつけない幻の世界。その二つの間には明確な境界線が引かれていないことを、これら小説群は鮮やかな筆致で私たちに語りかけているのです。
「物理世界と精神世界を密かに結ぶシンクロニシティは、日常世界にいくらでも起きていることではないか」(205頁)
私はそこに、雨月物語のような幽玄の世界を見出し、心地良い目まいを味わいました。
時間の経過が面白い作品。そのせいか読む方に、もどさかしさに似た何かを与える。私はどうにもそわそわして、何度も本を置いてしまった。そしてぼんやりと色々なことに思いを馳せる。ある程度の時間を置いた後、本に眼を戻すと物語の中でもだいぶ時間が進行している。現実の時間の経過も愉しい、一作。
「水いらず」
脳で匂いを司る部位は、原始的なより深い場所に位置するという。つまり、それだけ本能と直結しているわけで、匂いからは逃げられない――というコンセプトは医学的にも立証されうるのかもしれない。
内容は恐らくパトリック・ジュースキント『香水―ある人殺しの物語』が元と思われる。海外文学は面白くても、妙にデリカシーが欠けていたり、日本の生活とまるで繋がっていないのが欠点だが、日本向けに一から書き直せばこうなるだろうか。
「日付のある物語」
文芸誌で読んだ記憶が無く、かつ文章も内容も最近の傾向と違うな、と思ったら97年一月の作。
これは歴史小説の手法。実際にあった事件を独自の解釈と構図で描く筆致の切れ味は妖刀の如く鮮やかである。個人的ではない事実を元に小説を書くことは一見簡単なようで意外と難しく、相当な訓練を積まなければ出来ることではない。
「ザーサイの甕」
ラスト・シーンの色彩が美しい。金魚を扱った小説は世界でも稀だ。同じく『遊動亭円木』も数少ない金魚小説である。そしてこの作品と密接に拘わっている。これでもしハマトウに興味をお持ちになったら、是非一度同作者の『だれのものでもない悲しみ』も読んでみて欲しい。
他、「野球王」と表題作「枯葉の中の青い炎」があるが、どの作品も読み入ると現実と空想の区別がつかなくなってくる。むしろ本の中の方が現実ではないか、と思わせる強さがある。それもこれも読者を引き込むエレガントな文体あってこそである。
こんなことを突然夫が言い出したら妻はどう答えるだろうか?妻は、期間はぴったり1ヶ月、毎晩9時に電話をかけてくること、を条件に夫の申し出をすんなり了解してしまうのである。
短編集の冒頭を飾る「ちょっと歪んだわたしのブローチ」は、まるでロールプレイングゲームの最初の分岐で明らかに間違った選択をした際の物語の結末を知る楽しみに似ている。
こんなことを言い出す夫はいない、こんな答えをする妻はいない.....でも、そんなあるはずのない出来事の行く末を想像するのが物語の楽しみではないだろうか。
三菱銀行猟銃強盗・人質事件をモチーフにした「日付のある物語」も、“別の目的で銀行の地下に潜んでいた過激派工作員”という架空の人物の視点を仮想することで、現実とはまた違った物語を構築している。
6編はいずれも、斬新な発想、巧みな手法で、企みに満ちた物語に仕上がっている。ページを繰っている間、密度の濃い空想の時間をたっぷり味わうことが出来るはずだ。
流石に手練れのベテラン作家、レヴェルが違う。スタルヒンという日本プロ野球界の英雄の悲しい過去と選手としての栄光。300勝という大記録を前にしての苦難と、それを何とか叶えさせてやりたいという南の島から来たニシザワ投手。戦時中、その島には後年の作家中島敦が従軍で来ており、ニシザワ少年と「物語」を語り合う。ニシザワはその島に伝わる魔法をただ一人受け継いだ男だったのだ。スタさんに勝たせてやりたい。魔法を使ってでも。しかし、この魔法で何かの望みを叶えると、何か他の大きなものを失う。しかし彼は魔法をスタさんのために使う・・・・。
物語は滅びたのだろうか。メタレヴェルでのそんな思いまで誘うこの短編小説は、何よりもその物語自体が泣かせる。ロシアからの亡命家族の息子であったヴィクトル・スタルヒン、漁師の息子で日本人だったニシザワ。ヴィクトルの父の悲劇と、後年の須田博ことヴィクトル・スタルヒンの栄光と悲惨。昭和史ブームのいま、論者の恣意的な網の目から零れ落ちるさまざまな物語。そのひとつがこの作品だ。これこそ作家の仕事なのである。

