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???書斎派の京極堂の物語と一味違うのは、フィールドワークを専門とする多々良先生だけに、日本各地の妖怪スポットが多数登場する点。山梨では河童による殺人事件に出くわし、長野では漆黒の怪人と遭遇。群馬では不敗の賭博師と勝負する羽目に陥り、山形では行方不明となったミイラをめぐる大事件に巻き込まれ絶体絶命のピンチに。加えて、書き下ろしの最終話「古庫裏婆」で、京極堂との出会いが描かれているのもファンにはうれしい。クールな京極堂と直情型の多々良先生との邂逅(かいこう)の場面は、思わずニヤリとさせられる。
???また、この物語は、シャレや風刺が織り込まれた鳥山石燕の妖怪画の絵解きに重点が置かれているのも大きな特徴だ。「岸涯小僧(がんぎこぞう)」の絵に秘められた「がんぎ」の意味とは? 「泥田坊」の絵の裏には色事への戒めが…。企業誘致や開発計画といった「中途半端な近代化」によって地方で引き起こされた悲喜劇が、前近代の産物である妖怪を読み解くことで落着する。本書自体もまた、現代社会を痛烈に皮肉っているのが印象的だ。(中島正敏)
「岸涯小僧」は村に伝わる河童伝説と過疎地開発を結び付けた話。この事件で2人はスポンサーを得る。「泥田坊」は妖怪名にふさわしい"タオカエセ"というダイイング・メッセージと不可思議な密室事件が目玉だが、密室の方は前例が多くあり、ダイイング・メッセージも真相を明かされると腰砕けになる。「手の目」は不敗の盲目の賭博師の技を多々良先生のダミ声の歌が打ち破るという趣向に笑わされる。「古庫裏婆」では"黒衣の男"がゲスト出演し、恐怖のミイラ売買事件を解決する。
作者としては他の作品群より自由気ままに書いたものであり、読む方もリラックスして読むべきであろう。それにしても多々良先生と沼上のモデルは「妖怪馬鹿」の多田氏、村上氏の2人なんじゃないですか ? 教えて下さいよぉ〜。"妖怪馬鹿"の方にお勧めの一作。
これも喜劇のひとつの形ではあろうが、私の好みではない。また、文体も吟味が足らず、さすがの作者も筆力に驕ったと思しい。駄作は言い過ぎにしても、凡作、と言わざるを得ない。
ただ、何と言うかこのシリーズの致命的な弱点は、主役の「引き」の弱さだと思う。多々良センセイは「世紀の変人、奇人」という設定であるが、榎木津や木場修やらと並べてみるとどうにも(益田じゃないが)馬鹿がぬるい。
確かにめちゃくちゃ妖怪好きでわがままで自分勝手で傍若無人な人ではあるが、他の大馬鹿に比べると見劣りしてしまう点が痛い。「妖怪好き」を除けば、その辺にいる困った人である。おまけに多々良センセイにしろ相棒の沼上にしろ、榎木津のような存在自体の華やかさがないので全体に話が地味な印象になる。
どうにも切ない話が多いのだけれど。センセイは主役のくせに話から浮いてるし。
なによりも。
せっかく「黒衣の男」を友情出演させたが、空回りに終わっている。
京極堂シリーズを「暗い、重い」という声が多いが、例えば『絡新婦の理』の序幕にして終幕、桜の下で演じられた黒衣の男と「蜘蛛」との対話、また異教の学び舎にて美貌の堕天使を追い詰める場面の幻惑的な美しさを見ただろうか。
「雲」での黒衣の男は、文字数制限でもあるのかと訝しく思うほど一方的に(自分が知っていることを)しゃべりたてるだけで、憑き物落し(今回は憑ける方)の凄みや京極堂の姿や動きの美しさが、さっぱり伝わらない。
確かに、サイコロ型のノベルズというのもいかがなものかと思うので、あまりページ数を使えなかったのかとは思うが、いかにも書き飛ばしぽい。榎木津よりも誰よりも、京極堂の美しさにまいっている私としてはやや残念な登場だった。

