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このシチュエーションはブッツァーティの「タタール人の砂漠」に通じるところがあるが、タタール人が孤独の静かな狂気に陥っていくのに対して、この作品は暴力、全体の狂気が現れてくる。
注目するところは、軍によって行われる暴力、「私」の夷狄の女性に対するねじくれた感情などいろいろあるのだが、ここであえて「歴史と記憶」について。
「私」は遺跡を掘り返し、過去そこに生きてきた人々と声ならぬ対話をする。
最後に年代記を書こうと考えるのも、未来に自分の骸を見つけた誰かに語りかけたいという思いがあるからだ。
人と肉体的に交わるのは、性行為も暴力も実は同じで、誰か自分以外の人に、自分を刻みつけたいという思いからだろう。
それは「私」の、歴史に名を残したいという願いと、根本的につながっている。
たぶん人は、自分が世界にも他人にも、なんの足跡も残さずに去ることが怖い。
老人「私」は、始終驚き続けている。
気がついたらいつの間にか事件のど真ん中にいて、老人はなぜ自分がこんなことになってしまったのか、わかっていない。そして読む私たちもわからない。
きっと人の歴史ってこんなものなのだろう。
事件はほんの数年の出来事だが、その視野には何百年という「人間の歴史」がつまっている。
なんともいえぬ、不思議な読後感。とりあえずは一読。
食わず嫌いになっていたクッツェーだが、
どこかカルヴィーノやカフカを連想させるこの作品は、
自然描写の美しさに惹かれてスラスラと読んでしまった。
ただし、本書とその20年後に書かれた『恥辱』は、
設定こそ大幅に異なっているものの、
自らの老醜(とくに体型)を自覚している男が、
若い女への執着を機に地位を失って一気に転落し、
肉体的な暴力によって屈辱を嘗めるという筋だけを見れば、
殆ど瓜二つと言ってもいいほどに似通ってもいる。
理不尽な暴力によって、癒し難い恥辱を与えられるという体験を
繰り返し描いているところをみると、
ついついクッツェー本人の幼少期にも
同様の体験があったのではないかと勘繰りたくなるのだが、
(未読の『少年時代』に詳しく書いてあるのだろうか?)
実を言えば、拷問の凄まじさは予想していたほどではなかったし、
主人公が夜ごとに夷狄の娘の肉体を弄びながら、
行為には及ぶことなく眠り込んでしまうという、
谷崎の「眠れる美女」を逆転させたような場面にしても、
気持ち悪いというよりは、むしろファンタジックな印象のほうが強い。
「後味の悪さ」を残す作風ということでは
やはり『恥辱』のほうが遥かに上なのかもしれず、
そのあたりが☆4つにとどめた理由でもある。
ちなみに、邦訳タイトルには多少の違和感を覚えた。
「夷狄」という古めかしい漢語をあえて使ったのは、
むろん、『ゴドーを待ちながら』を念頭に置いてのことだろうが、
文語ゆえにどこか実感に乏しいことは否めず、
"barbarians"という原語に籠められていたはずの
差別-被差別の問題が、完全に捨象されてしまう気がする。
そもそも、"godot"と"barbarians"では音節数が違うのだから、
邦訳でも無理に合わせる必要はなく、「野蛮人」でまずければ
「蛮族」あたりでも良かったのではないか。
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帝国に支配される辺境の町。そして遠方から移動してくる姿の見えない夷狄。この構図は、古代ギリシアのポリスに対するbarbaroi、古代ローマに対するgalliを連想させに充分であり、原題Waiting for the barbariansからも、作者の古典に対する意図は充分伺われると思います。
とある時代、とある場所の帝国が舞台。主人公は初老の民政官である私。そこへ帝国の治安警察の将校が視察にやって来ます。最重要部門第三局に所属するサディストのジョル大佐、彼は、辺境の夷狄との戦争が始まるのだと言います。反発する私。ふたりの対立を軸に、ジョル大佐の遠征、捕虜の連行、果てしない暴行が繰り広げられ、私は連れて来られ盲にされた女と奇妙な関係を持つに至ります。女を夷狄の部隊に返そうと、今度は私が遠征する。しかし、帰ってくると、夷狄に通じたとして反逆罪に問われてしまう。激しい拷問。そして野良犬のような生活。
やがて夷狄による本格的な攻撃が始まります。戦局は悪化し、駐屯軍の撤退が始まり、取り残された私たちは、夷狄を待ちながら最後の時を過ごすのです……。
執拗で生理的な嫌悪をかきたてる容赦のない暴力の描写が目に付きますが、しかし、それはヘロドトスなどの古典を繙けば頻繁にお目にかかれるもので、「古くて新しい」記述とでも言うべきもの。南アという、現在進行形で二つの文化がぶつかり合うホットな地域に根差し、それを自らの西洋的なルーツを辿り重ね書きpalinpsestすることで、この作品は、知的な構成を保ちつつも、人間の奥底に眠っている根元的な在り方の一側面を描き出す事に成功していると思います。

