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黄金町というものがありのままのそこであるのならば、僕は自分がまだその場所には行くべきではないと思った。
腐臭が漂ってきそうですらある彼女の描写からは、そこが人生の終着駅、人が最期に訪れる場所にしか思えてこないのだ。
これは父殺しの小説だ。黄金町を寝床にする怪物、パチンコ店でのし上がり金と権力と性を思うがままに操る強欲的な父とその息子である「少年」。
彼はその父を殺し、支配から逃れたのはいいものの、その死は肉体的な死でしかない。精神分析の教えに従えば、正しい仕方で埋葬されていない
その父は象徴的な死をむかえていない。
まだ象徴的な父が生きているのである。少年自身の中において・・・。
だから父の存在が消えても、その後の少年の振る舞いが、まるで生前の父を模倣し、代役を務めているかのように、乱暴になり、性にまみれていく。
彼が父の愛人麻衣に筆おろしをしてもらったという事実が、それを象徴している。
衝動的な犯行と、あまりにも稚拙でまるでユートピアのような(犯罪が発覚せず、響子や兄・幸樹たちとのささやかながらも幸福に暮らしたいという)願望。
少年はまだ子どもなのか?
彼自身はもう子どもではないと言い切った。では大人なのか。否、彼は大人をバカだアホだとさげすみ、見下している。彼は大人でもない。
では少年はいったい誰なのか。
子どもと大人の間の空白地帯、誰もが一度は落っこちるであろうそのエアポケットを、柳美里はかくもグロテスクに描ききった。
其れから連想させられるイメージとして
鬱屈し徐々に病んでいく主人公を想像したが
物語の世界観(場所)からして「闇」である。
よって、主人公が特別に異端であるとは捕らえにくく
日常から掛け離れている感じがする。
後で「感動もの」と知って、少し納得しなくもない。
僕はこの人の文学感が理解できない。文章がグロテスクでとてもじゃないけどついていけない。文字のすみずみから臭気があふれ出してくるようである。別に文章が下手なわけではない。生理的に受け付けないのだ。
このなんとも言えないグロテスクさには辟易する。小林泰三の玩具修理者や沙藤一樹のDブリッジテープなんか僕は読める。ぐろいけど読める。でも、この人の文章は村上龍と同じで、デフォルトでぐろい。ついていけない。それから、もっと普通の14歳かと思いきや、全然違った。
とても生々しくて、ムっとするようで、好きです。
眩しい陽光と緑の煌きは美しく映え、蝉の合唱が鼓膜を揺らす、生と性に満ち満ちた夏。
けれど、太陽の光が強すぎるほど眩暈を起こす人は増え、そして影と光のコントラストは強くなっていきます。
「柳美里さんの描く『夏』は、好きです」と先述しましたが、私は柳さんの描く「夏」に拒絶された「影」が好きなのかもしれません。
少年は黄金町の影に呑みこまれたのか、夏の日差しに飲み込まれたのか。それとも、定食屋の二階で吸った麻薬に侵されたのか。
いずれにしても、彼の感覚が「麻痺」し、「影」に落ちてていったことは間違い無いと思います。
この作品が書かれたときから結構な月日が経ち、現在では小学生が同級生を殺す、という事件まで起こってしまいました。
これは哀しむべきことであるし、これらの少年犯罪についてはこれから深く考える必要があります。
私はこの小説の主人公とごく近い年齢です。この世代の男の子としては少年は随分大人びているような気もしましたが、読み進めていくうちに「実のところ背伸びしてるだけ」、という印象を受けました。
少年が父を「殺すこと」が重要なのではなく(勿論たいへんショッキングなことですが)、少年が父を殺すまでの「経緯」と、少年が父を殺して「それから」が重要なのだと、私は思います。
最後のシーン、檻の向こうの動物に少年のフリーズしていた感覚は溶け出します。
私にはどうも幸福な情景には思えませんでしたが、それでも少年の溶け出す心を一瞬でも垣間見ることが出来、救われる思いでした。

