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わが子は見守りたい、けれど我が身も守りたい。そんなとき母親は子どもにどんなことをするのだろうか。
小説は、自分の人生の当初の記憶が定かでなくて、出生についてよくわからない、そんな青年を中心としたファミリーの物語だ。母親のことなんかあまりこだわらないようにしたいのだが、そういうわけにはいかない。一般的には出生の経緯などは親や親代わりの人が解決してくれるものだ。しかし、親代わりのような女性は出生の地を教えてくれはしたのだが、親らしい人はなかなか確定しない。青年は、母親は誰かなんてほのかな熱を抱いているだけで、それで終生通してもよかった。だが、出生の地に連れてこられ口火が切られると、もはやなにが何でも真実を究明せざるを得なくなった。
「俺の母親は誰だ」
もちろん、それが解決したら次の言葉は当然
「俺の父親は誰だ」
そして「俺の先祖にはどんなやつがいるのだ」
こんな望みは当面ぜいたくなことだろう。まずもって自分の母親が知りたい。
自分の子どもがこんな悩みを持つことになるのが分かってはいても、母親は正体を明かしたくないこともあるのだろうか。それはなぜだ?
力の入った作品である。
「果実の船を川に流して」
ただいま「キャリア教育」というものが世の中にはびこっている。クソくらえってな感じだが、自分の眼前に現れた男は大学をとにかく入って出たが、なにをしたらいいのか分からない。さしあたって東南アジアを一周してきた。これは小説ではなく現実なのだが、小説の主人公も同様で、帰国してからゲイバーのバーテンダーになった。
そしてママの世代のファッションリーダーだった男の発狂を知って、ママはとてつもなくうちひしがれる。
今どきの青年よ、ママみたいに、心の芯から支えてくれる人物はいるか? 簡単に怪しい教団のエロいカリスマにだまされないように、こんな人物を探求して見たらいかがであろうか?
表題作がとにかく素晴らしい。典型的な自分探しの話。自分の出生も、自分の親が誰かも知れない、自分が誰だか、何処から来たのかわからない少年が主人公。漠然とした不安、自分の過去、あるいは拠り所のようなものを失ってしまいそうになる不安感と闘いながら、過去を模索し始める主人公の姿を通して物語は進む。暫定的に与えらた答えや、真実のことは明らかにしないほうがいいだろうが、やけにすがすがしい。
「葉桜の日」「果実の舟を川に流して」ともに完成度は高い。
「川べりの道」から続く喪失感を、ナイーブな青年の目を通して
ポジティブに描いている。
たくさんの、生きることを真摯に捉えた言葉たちで溢れています。
在日の話が登場する表題作を契機として、この鷺沢萠という作家は
従来からの家族のモンダイに、出自のモンダイが加わり、
作家としての円熟期に入っていく記念碑的作品集である。
先に発表された「果実の舟を川に流して」については
主人公は母親の死により、一流大学から就職という道を絶たれ、
アウトローの集まる店のアルバイトに身をやつしている。
引き続き他人との差別化の手段としての喪失感と、
いわゆる「フツーの社会」からの疎外感は健在、
情景の一つ一つは極めて鮮烈なイメージを残すが、
ロシア人・米兵・華僑といった道具立てはややありきたりで弱い。
しかし第104回芥川賞候補作にもなった表題作「葉桜の日」については
作家として、一歩踏み込んだ感が強い。
それは、それまでの彼女の創り出す主人公が、
どちらかといえば自分から壁を作るタイプの人間だったのに対して、
在日という要素は、生まれてきた時からの逃れ得ない宿命として
原罪の如く、絶対的に壁を持たされている人物を産み出すからだ。
その運命を受け入れる主人公のように、
花びらを散らせたのち、若葉を芽吹かせる葉桜は、
何かしらの決意のようであり力強く、美しい。
『葉桜の日』
自分のアイデンティティーを探っていくことによって、
意外な事実を知ってしまう青年の話。
「僕は、ホント誰なんだろうね?」
それを知ることの底なし感覚と、
小さなしこりが大きくなっていく不安。
知ってしまった後の、脱力感・・・。
やりきれなくなるけれど、読後、清々しさが残る。
『果実の舟を川に流して』
オカマバーでバーテンをしているケンケンが見つめる日向と日陰。
なぜ、日陰で生きていくのか。日向って、どういうところなのか。
漠然と、日常生活を送っていて引っ掛かるところを巧みに描いた小説。
青春小説とあるけれど、全ての年代で各々受け止められる類のものだと思う。
