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■読者の評価
おすすめ度平均
実に実に奇妙で面白く、まさに現代のお話。。。ただ一点 おすすめ度
これはなんとも奇妙で、斬新な話だなぁ。このスタイルこそ、まさに現代の純文学なのかもしれない。いつ終わるともなく、まるで酒場の隣の席の知らない人が、だらだら物語るように、でも、その話は面白く、興味深く、でもだらだらだらだら独白するように続く。
いつの間にか、話は隣の別の人が受け取ってしているような。
途切れなく、ふと気がつくと視点が、話し手が、かわって行く。世界を見る目が違う角度になっている。でも、同じ空間と時間を共有して、こちら側とあちら側とから見ているような。
とっても不思議で、実験的で、斬新で、面白い小説でした。
ならなんで、☆4つかって。。。
正直、巻末の大江健三郎の解説が、語りすぎなんだともう。
大江健三郎賞受賞作だし、大江が語りたい気持ちはわかる。
別の見方をすれば、小説買ったつもりが、なんと大江のエッセイまで付いてくると思えば、2倍おいしいのかもしれない。
でも、語りすぎだよ。絶対に先に読んではいけない。先に読んだら、もうそうとしか読めなくなります。いささか大江も年をとり、おせっかいになったのか。非常に興味深い解説であり一級のエッセイなんだけど、やっぱりこれは別のところでいいよ、と思う。
だからごめんね。
☆一個減らした。人によっては、逆に(大江の文章を読めて)☆一個増やすかもしれないけど。
いつの間にか、話は隣の別の人が受け取ってしているような。
途切れなく、ふと気がつくと視点が、話し手が、かわって行く。世界を見る目が違う角度になっている。でも、同じ空間と時間を共有して、こちら側とあちら側とから見ているような。
とっても不思議で、実験的で、斬新で、面白い小説でした。
ならなんで、☆4つかって。。。
正直、巻末の大江健三郎の解説が、語りすぎなんだともう。
大江健三郎賞受賞作だし、大江が語りたい気持ちはわかる。
別の見方をすれば、小説買ったつもりが、なんと大江のエッセイまで付いてくると思えば、2倍おいしいのかもしれない。
でも、語りすぎだよ。絶対に先に読んではいけない。先に読んだら、もうそうとしか読めなくなります。いささか大江も年をとり、おせっかいになったのか。非常に興味深い解説であり一級のエッセイなんだけど、やっぱりこれは別のところでいいよ、と思う。
だからごめんね。
☆一個減らした。人によっては、逆に(大江の文章を読めて)☆一個増やすかもしれないけど。
新たな才能の出現と見た おすすめ度
私たちは多くの時間を過ごす。そして、大概の時間は、日々の営みに撲殺されてしまう。ただ、その時間の中で、ある一瞬、ほんの一時はまるで神様から祝福を受けたように特別に許されたような奇跡的な時間がある。そして、そんな幸福に満ちた時間は永続的に続く訳もなく、必然として終わってしまい、また日常に埋没してしまう。
そんな、お話でした。
読んでて、気持ちがヘコミんだり、テンション上がりまくったり、でもやっぱり最低の気分になったり、感情の起伏が激しくなってしまいました。
文体がかなり変です。新しいといえば新しいかもしれませんが、へたくそといえば、へたくそなのかもしれません。ただ、私は内容も当然ながら、あの変な文体が大好きです。
品質は保障しませんが、面白いと思う人は、かなり面白いと思います。(当たり前ですけど…)
そんな、お話でした。
読んでて、気持ちがヘコミんだり、テンション上がりまくったり、でもやっぱり最低の気分になったり、感情の起伏が激しくなってしまいました。
文体がかなり変です。新しいといえば新しいかもしれませんが、へたくそといえば、へたくそなのかもしれません。ただ、私は内容も当然ながら、あの変な文体が大好きです。
品質は保障しませんが、面白いと思う人は、かなり面白いと思います。(当たり前ですけど…)
小説として、どうなのか。 おすすめ度
芝居で観れなかったので、
本で読んでみようと思いました。
独白的な文章だけでつづられ、
会話はない。
2作の中編。
1作目の『三月の五日間』は、
ある男と女が、
出会ってから、
渋谷のラブホテルで一緒に過ごした、
という話。
その後にも、先にも、
続くドラマはない。
2作目は『わたしの場所の複数』は、
主人公の女が、
頭の中で思いついたことをのべつまくなしに書きたてる。
それは、
誰もがしてることであり、
何の変哲もない日常に起こりうる、
特別ではないこと。
その積み重ねで、
時に人と出会い、
時に何かに気づいたりする。
ただ、こちらはくどすぎて、
読むのが大変だった…。
総じて、
文学である以上、
読ませることが必要だと思う。
ここまでくどくて、
読みづらいというのは、
使命感以外に、
最後まで読むことが難しかった。
やはり、舞台で聞きたい言葉なのかな、と思った。
本で読んでみようと思いました。
独白的な文章だけでつづられ、
会話はない。
2作の中編。
1作目の『三月の五日間』は、
ある男と女が、
出会ってから、
渋谷のラブホテルで一緒に過ごした、
という話。
その後にも、先にも、
続くドラマはない。
2作目は『わたしの場所の複数』は、
主人公の女が、
頭の中で思いついたことをのべつまくなしに書きたてる。
それは、
誰もがしてることであり、
何の変哲もない日常に起こりうる、
特別ではないこと。
その積み重ねで、
時に人と出会い、
時に何かに気づいたりする。
ただ、こちらはくどすぎて、
読むのが大変だった…。
総じて、
文学である以上、
読ませることが必要だと思う。
ここまでくどくて、
読みづらいというのは、
使命感以外に、
最後まで読むことが難しかった。
やはり、舞台で聞きたい言葉なのかな、と思った。
フツーの小説だと思って読むと抵抗が多かろう おすすめ度
小劇場演劇を割とそのまま小説にした感じが色濃い。
個人的にはニート世代の厭世的な気分が良く出ていると思うが
「静かな演劇」などを観たことがない読者が
フツーの小説だと思って読むと抵抗が多かろう。
若者言葉饒舌体も、変なリアリズムも、
文章や物語のリズムを敢えてずらす手法も
舞台の上である空気を造るためのテクニックであり
確かに戯曲を読むのと同じように
三次元の想像が出来なければまず楽しめない一冊。
個人的にはニート世代の厭世的な気分が良く出ていると思うが
「静かな演劇」などを観たことがない読者が
フツーの小説だと思って読むと抵抗が多かろう。
若者言葉饒舌体も、変なリアリズムも、
文章や物語のリズムを敢えてずらす手法も
舞台の上である空気を造るためのテクニックであり
確かに戯曲を読むのと同じように
三次元の想像が出来なければまず楽しめない一冊。
大江賞に見合う駄作 おすすめ度
第2回大江健三郎賞受賞作らしい。第1回受賞作は読んでいない(何だったかも覚えていない)。今回は、「それに釣られて」読んでみた。
駄作である。何が言葉の機能か? 保坂和志までが褒めている。高橋源一郎などは、「イラク戦争についての最も優れた日本語の小説だ」とまで評している。オイ、オイ。
アメリカ合衆国のイラク空爆前後の時期、東京都の繁華街渋谷が舞台。しかし、一言で言えば若者風俗にイラクの戦も使ってみましたというだけである。
話者の思わせぶりな視点のチェンジや、現代若者言葉の使用や、淡々としているが饒舌体風(その実、所謂饒舌体ではないが)の文体が前衛もどきの雰囲気を醸し出していると考えるナイーヴな読者もいるのだろう、多分。こういうのに弱い(わかると思い込んでいる)人もいるのだろうが、2003年の現実、ことさらに2003年のイラク戦争と同期させる必要などはまったくない、うすっぺらな言葉の連なりとしか言う他はない駄作だ。電車で騒ぎ、渋谷をうろつく若者が、イラク戦争などに何らの関心もなく、デモ行進なんてものはダサと思っているし、その行動原理は理解の範囲外であるという厳然たる事実は、事実である以上、それを批判してもこの際意味はない。しかし、低俗愚かな彼らの風俗を描いていても、優れた小説は稀にはあるし、それを通して戦争状態のニッポンの現実を描くことも可能である。本書は愚かな人間の貧相な言語活動(老若男女概ね誰しもそうだ)の可能性をではなく、誠に中途半端なフィーリングを描いているに過ぎない。保坂評は全文を読んでいるのではなく、本書オビの惹句を見ているだけであるが、この作品に「これを書いた人の存在はずっと消えない」ほどの価値があるとは到底思えない。少なくともこの作品はすぐに消え去る消費物であろう。
こういうのを「わかる」ことが、文学・小説をわかることではない。こういうのを「わかる」ということが、小説の衰退を招いている元凶のひとつであるとすら言っておいてもよい。作家も読者もお互いを甘やかし、衰退するままに任せ、閉じられたサークル化が進んでいるのである。
いずれにしても、近年の大江に見合っているではないか。
駄作である。何が言葉の機能か? 保坂和志までが褒めている。高橋源一郎などは、「イラク戦争についての最も優れた日本語の小説だ」とまで評している。オイ、オイ。
アメリカ合衆国のイラク空爆前後の時期、東京都の繁華街渋谷が舞台。しかし、一言で言えば若者風俗にイラクの戦も使ってみましたというだけである。
話者の思わせぶりな視点のチェンジや、現代若者言葉の使用や、淡々としているが饒舌体風(その実、所謂饒舌体ではないが)の文体が前衛もどきの雰囲気を醸し出していると考えるナイーヴな読者もいるのだろう、多分。こういうのに弱い(わかると思い込んでいる)人もいるのだろうが、2003年の現実、ことさらに2003年のイラク戦争と同期させる必要などはまったくない、うすっぺらな言葉の連なりとしか言う他はない駄作だ。電車で騒ぎ、渋谷をうろつく若者が、イラク戦争などに何らの関心もなく、デモ行進なんてものはダサと思っているし、その行動原理は理解の範囲外であるという厳然たる事実は、事実である以上、それを批判してもこの際意味はない。しかし、低俗愚かな彼らの風俗を描いていても、優れた小説は稀にはあるし、それを通して戦争状態のニッポンの現実を描くことも可能である。本書は愚かな人間の貧相な言語活動(老若男女概ね誰しもそうだ)の可能性をではなく、誠に中途半端なフィーリングを描いているに過ぎない。保坂評は全文を読んでいるのではなく、本書オビの惹句を見ているだけであるが、この作品に「これを書いた人の存在はずっと消えない」ほどの価値があるとは到底思えない。少なくともこの作品はすぐに消え去る消費物であろう。
こういうのを「わかる」ことが、文学・小説をわかることではない。こういうのを「わかる」ということが、小説の衰退を招いている元凶のひとつであるとすら言っておいてもよい。作家も読者もお互いを甘やかし、衰退するままに任せ、閉じられたサークル化が進んでいるのである。
いずれにしても、近年の大江に見合っているではないか。

