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小説もまた、同様である。
語られるものではなく、書き付けられるものが小説だ。書き付ける上では、物語をいかようにも持てあそぶ事は可能だろう。(対話ではないという意味で)
しかし、この作品における「細部」とは、破綻した物語のかけらなどでは、ない。ないばかりか、むしろ決して破綻していない完璧な描写そのものこそ、「細部」であり、破綻した物語は、いやおうにもそこに帰結せざるを得ない。
この作品の面白さは、メルヘンがメタテクストとして作用しているところなどにあるのではない(正直言えば、そのような読み方こそ私には理解できないし、そんな事どうでもいい、と思う。)
メタテクストを放棄しようとする客観的な描写だからこその「日記」なのであり、日記とは、描写そのものである。
その、描写がすごい。それ以外に言いようがない。
ですが、私はトマス・ピンチョンではなく、フランスの実験工房ウリポのジョルジュ・ペレック「人生 使用法」に近いものを感じました。読んでいる時の感覚としては、同じく実験工房ウリポの作家レイモン・クノーの「文体練習」を読んでいる時のようでした。
なによりも、とにかく面白い!久しぶりに読書に没頭しました。いや、「読書」というよりも「体験」をしたのかもしれません。
次回作に期待です。
ちなみに、この作品は今期の野間文芸新人賞を受賞しました。この本に収録されている「クレーターのほとりで」は三島由紀夫賞候補作品で、惜しくも受賞はできませんでしたが、選考委員の筒井康隆さんが絶賛していました。
というのは繰り返し行われてきたことで
のせられて読むと後悔する。読み通せればの話だが。
普段苦労して作品をつくっている小説家にとっては
何かその苦労をわかちあえたような
そんな気にさせられる類のものかもしれないが、
これをピンチョンにたとえるのは
あまりにもピンチョンに、というか
アメリカ文学のファンにも失礼なことだ。
作品そのもの、評価のされ方ともに
「だから文学が駄目になるんだ」
という紋切り型のセリフがこれほど似合うものは
他に見当たらない。
読者の予測を裏切ることだけに注力して書かれており
その裏切りがいかなる快楽にも知的興奮にも感動にも
つながらない。フックさえ潰されている。
ゼロの文学。価格ゼロ円で所要時間もゼロなら
ぜひ読むべきだ。
保坂和志の『小説の自由』を先に読んでいると思う。
その場合、保坂評にもあった「クレーターのほとりで」のほうを
先に読むことを強くおすすめする。
「四十日……」は私にはまるでピンと来なくて、
無理して半分ほど読んだところで投げてしまった。
主人公の「ゆるい日常」が屈折した筆致で語られるうちに
徐々にメタレベルのテクストが取り込まれるという構成は
それなりに工夫されているのだが、
そこに含まれている情報はどうでもいいものばかりだし、
語り口にも作者の年齢相応の屈託しか感じられず、
「なんだか可愛い」としか言いようがない。
同じような構成になっていたはずの
村上春樹『風の歌を聴け』あたりに比べると、
差はあまりにも歴然としていると思う。
(まあ、比べるのが間違いかもしれないが……)
正直、こういうウザい話を読むのに
貴重な時間を取られたくないとか思ってしまう私は、
文学がわからない人間なのかもしれないが(笑)、
この手の作品で喜んでいる手合いが
昨今の文学を支えているのだとすると、
そんなものはわからなくても一向にかまわない、と
保坂風に開き直って言ってみたくなったりした。
表題作「四十日と四十夜のメルヘン」は、冒頭で井荻や下井草の描写が繰り返される辺りは同じ西武線沿線を良く描いていた保坂氏と被らないこともない。いわゆるセゾン系の流れ?
そこから先は主人公のうだつの上がらない現実をなぞった7月初旬の日記のループと文章教室の先生という人物の作品と主人公の作中作とがメタフィクショナルな展開を見せ、なかなか読み応えがある。
「チラシの裏」の使い方も洒落ている。
カップリングの「クレーターのほとりで」はSF風味を効かせたファンタジーの習作といった感が強くちょっと物足りない。
若い書き手さんなので今後に期待。

