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百合子夫人にとっては毎日見なれている大作家や大思想家よりは一人で参加した、飛びぬけて年上の錢高老人の言動に惹かれるものがあったようだ。観光地で何を見学したかについてはあまり期待しない方がいい。彼女の関心は日々の食事、そして夫君と竹内老人の福祉、つまり、ご機嫌である。初めての外国旅行でロシア語のカタコトを駆使して走り回るのはもっぱら彼女の役なのだ。しかしおそらく彼女がひそかに楽しみとしたものは何よりも異国で初めて見る人々の生活ぶりである。これに比べれば時おり姿を見せる2人の同伴者は年老いた弥次喜多さながらである。それは日本男性の典型的な国際的適応性と変わるところがない。夫君は彼女に向って「おいポチ、楽しいか」などと声をかける。彼女は中央アジアの都市を振り返って「前世というものがあるなら、そのとき、ここで暮らしていたのではないかという気がした」と思う。彼女は日々楽しかったのである。そしてそのような彼女の観察と言動が過不足なく読者に伝わってくる。
長く旅行をしていると、普通の(こんな辺境を旅行していること自体は、普通とはいえないのだが)旅行者と違うレベルで旅行している人にごく稀に出会う。彼らの特徴は、いつもそうしているように朝食を取り、人々と関わり、子どもをたしなめたりすることである。見かけは大抵の場合、人種的に旅行者と判るが、振る舞いが現地に馴染んでいるのである。現地に馴染んでいるような、人々に愛されているような旅行者は大勢いる。そのような旅行者と彼らは違う次元であるということを念押ししておきたい。旅行慣れしているとか、何年も海外生活をしていたとか、文化人類学に興味があるというのも、ほとんど彼らの性質とは関係ないのである。
今までどのように周囲と関わりながら生きてきたのか?そのような人に対して、私はとても惹かれてしまう。武田百合子とはそういう人だ。
この旅行の参加者の行動は金に不自由のない俗物のそれであり、知識人の自意識が何となく動きに箔を付けているものの、あまり格好の良い見物ではない。しかし、現代の暇な高齢者海外旅行団と比べてましだと思うのは、少なくとも著者に近しい数人は、自身の意思で行動し、現地と直に交わろうと試みていた点である。イワシの群れから少しは離れる意思を持っていたことである。それがなければこの作品は、作品として成立しなかったに違いない。
さて、散々なことを書いたものの、私の読後感はとてもよい。無垢な感性と確かな表現力とが同時に存在するケースは、まったく希有なことではあるまいか。あまりにも汚れのない、まっすぐな心情と行動は、読者を不安にさせるほどである。本書は作者の人柄によって命を得た。天使のような美しい心で紡がれた文章は、汚濁の現代においては哀調さえ帯びて心に沁みる。こんなに心の美しい人がいる。それは益々人嫌いが高じつつある私にとって、救済とさえ思われた。
「富士日記」ですっかり彼女の魅力にヤラれちゃった方に、本書はかなりおススメ!相変わらずユニークでかわいらしく、どきっとする表現や比喩の宝庫です。まだ物資の少ないソビエト連邦(ここではロシアと表現)を旅した旅行記の本書では、異文化に触れた驚きや戸惑いや寂寞をたぐいまれな感性のレンズで切りとって見せてくれます。もちろん、生活に密着したネタに関しての文章のキレは相変わらずです。センテンスも短く、テンポもいいので通勤の電車や、ぽっとあいた時間で読むのに最高。
こんな女性がパートナーだった武田泰淳さんのことを、ちょっぴりうらやましく思いました。
