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その時、あの御文(いわゆる「白骨の御文章」)がしたためられる。「…人間のはかなきことは、老少不定のさかひなれば、…」(暗転)混迷の今、「蓮如」に学べ、ということで前進座で舞台化され、各地で上演された。行き詰まった近代合理主義に対する「解毒剤」にもなるだろうか。虚妄の繁栄にすぎない表層の裏に深淵が隠されていることを悟りたい。
私は岩波新書の方を先に読んだ。これが正解だったと思う。浄土真宗がどのような教えなのか、蓮如が生きた時代の背景はどのようなものであったか、五木が蓮如をどのようにとらえているかということが頭に入っている方が楽しめると思う。
岩波新書の中でも書かれているように五木は蓮如を「弱い人間」ととらえている。それは、非常にはっきりとこの戯曲の主題として描かれている。これは私が持っていた蓮如観とは全く違うものであり、非常に新鮮に感じられた。私は戦国時代に浄土真宗を強大な宗教勢力、政治勢力にまで育て上げた蓮如をマキャベリスティックな強力な人物ととらえていた。おおかたの日本人はそのようなイメージを持っていたのではないか。
ところが五木の描く蓮如は実に優柔不断で、さびしがりやで、弱虫である。回りの人間に流され、いつもおろおろしている。蓮如が六歳の時母親と生き別れになったことを五木は重視している。「運命の足音」を読んでわかったのだが、五木も少年時代に朝鮮に侵入してきたソ連軍に母親を殺されている。おそらく自分の気持ちを蓮如に重ね合わせているのであろう。
これは遠藤周作が「弱いキリスト」「無力なキリスト」を描いたのと軌を一にしている。日本人の中には強力な、父性的なカリスマより、弱々しいが、すべてを受け入れてくれる母性的なカリスマを求める気持ちが強いのではないか。
しかし、ただ弱ければいいというわけではない。あくまでも誠実で、無私の人であることが求められる。蓮如は母親が別れ際に残した「私を思い出すときには、おねんぶつをとなえなされ。ただ、しんらんさまについてゆくのじゃ。そして、おねんぶつをひろめなされ」という言葉を胸に、戦国の庶民に念仏のメッセージを伝えるための「お文」を書くことに命がけで取り組む人物として描かれる。ありきたりな言葉しか書けない自分の表現力のなさに悩み抜く姿が印象的である。
これはあくまでも五木のとらえた蓮如像であり、実在人物としての蓮如とは当然ずれがあるだろう。我々がこの本に読みとるべきなのは蓮如の実像よりも、むしろ蓮如を通して描かれた五木のメッセージであると思う。五木は最近「情の力」という本を出した。五木が蓮如を通じて表現したかったのはこの「情の力」ではないだろうか。
蓮如は、闇のような室町時代に生きて、人の魂を救うべく他力本願を唱えた浄土真宗の僧。現代も蓮如の時代に似た闇が世の中を覆っている。現代の人にも蓮如の言葉は伝わるはずである。
「大河の一滴」などと共通する傷ついた現代人の心を癒す物語である。
戯曲といっても、舞台よりも読者を意識して作られた作品。
この形式を採用で、「会話」がリズミカルになり、登場人物に生き生きとした個性を与えることに成功している。読みやすくなっている。
蓮如は、「ふみ」によって親鸞の教えを広く世の中に伝える。世の中の多くの人が、文字が読めない時代であったため、それは音で伝えられることを目的とした文章であった。後世の人は、蓮如の文?を悪文と評価したが、声に出してみるとその文章は命を吹き込まれ、輝き始める。
著者は、このことを強く意識して、あえて戯曲で蓮如を現したのではないだろうか?
巻末の三浦雅士との対談「なぜ、いま戯曲を書くのか」も小説論として秀逸。

