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ページを先へ先へと進めざるを得ない恐ろしい小説です。
「小説は作り物です」という姿勢がすがすがしい。
フィクションとわかりつつ、そういうことってあるよ
その行きつ戻りつがスリリング。
また読んでしまう、繰り返し読んでしまう。
1作目「鈍感な青年」ではやくも圧倒されてしまった。
なにげない恋愛が、非常に緻密に描かれている小説だった。
2作目「樹影譚」もすごかった。
私はこれまで作家を怖いと思ったことはないが、この2作を読んで、これらを創造した丸谷才一をとても怖いと思った。
一般に作家というものは、自分が扱う主人公や登場人物に少なからぬ親近感を抱いているように思う。
読者にそれが伝わることもある。
しかし丸谷才一は、登場人物たちを冷徹に、物語を紡ぐための道具として扱っているようだ。
まるで創造主が冷めた目をして、この世の人間を意のままに動かしているかのように・・・。
丸谷才一は、私にとって特別な作家となった。
「樹影譚」については、「出生の秘密 」、さらには村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」が深く鋭く掘り下げているので、ほとんど付け足すところがない。
この短編集には「樹影譚」の他に2編が収められてるんだけど、どれも秀逸。3編には共通点があって、それは言葉を三回繰り返すフレーズ。「樹影譚」の「キノカゲ、キノカゲ、キノカゲ」、「鈍感な青年」の「ハイ、ハイ、ハイ」、「夢を買ひます」の「聞いて聞いて聞いて」。どれも、それぞれの小説を象徴してるフレーズで、こういう短編を一冊にまとめるっていう細かい仕掛けが、丸谷才一の魅力かなって思う。
「鈍感な青年」は1986年の作品なんだけど、今じゃ通じないアイデアもある。主人公の若い男が、三年日記の一昨年の記述を見て佃のお祭りに彼女を誘うものの、その年は大祭じゃなかったので、現地に足を運んで呆然!ってやつ。調べてみたら「東京ウォーカー」の創刊は1990年、「TOKYO一週間」の創刊号は1997年だし、当時は「ぴあ」も花火とか祭りなんてフォローしてなかった。今じゃ、インターネットやケータイでチェックしちゃうから、こういうハプニングも起こり辛い。
初体験が不調に終わった途端、男の精が弾けて女の目元を濡らすなんてエピソードは、若い二人の初々しい関係をうまく象徴しているけど、これなんかもAVとかで顔にひっかけるやつがポピュラーになっちゃうと意味性が変わってしまう。
こうして、20年前の小説を読み返すと、丸谷才一がその時代ならではの旬なアイデアを小説に組み込んでいたんだなってことがわかる(って言うのも佃のリバーシティの着工がまさに1986年なんだよね。この小説に描かれる佃の風景もこれが最後って時期な訳で...)。小説って時代性があるからこそ、読み返すと面白いってこともあるなぁ。
恐るべき構成力と技巧を以って精緻な虚構を構築する表題作がやはり白眉ですが、一見軽く書き流したようにも見えるユーモラスな短編「鈍感な青年」も見逃せません。人はいいがどこか抜けたところのある青年と、可憐で頭の回転の速いガールフレンドとの、なかなかうまく結ばれない、童貞と処女のもどかしい恋をコメディタッチで描いた小説なのですが、とにかく細部が凝りに凝っています。作者の視点は基本的に主人公の青年に寄り添っていますが、時々客観的に彼の鈍感さを哀れんだり、おかしんだりしていて、こういう自在な視点の変化は漱石の「三四郎」に並ぶ巧さです。軽く笑いながら読めて、それでいて読後には一抹の甘酸っぱい寂しさが残る。現代最高の文章職人・丸谷氏の芸に酔いしれましょう。
この人めちゃくちゃ頭良いな、到底かなわない、と素直に感服させられる人がたまにいますが、丸谷才一氏もそうした人の一人です。この本に収められている短篇は、どれも筆者の知性と技巧が堪能できる素晴らしいものです。短いページ数の中で、まずその文章の意図・方向性を明らかにし、その狙いにしたがって書いてみせ、さらにその上を行ってしまう重層的な構造を持った表題作が群を抜いて素晴らしい出来栄えですが、他の二篇も、それぞれに味わいがあって、本を読む刺激を再認識させてくれる文章になっています。文字という形而上の産物を徹底的に利用して、リアリティをとらまえる、そんな勢いがあります。参りました。

